目覚めてから自身の躰の変化に気づくまで、大した時間はかからなかった。
肉塊になった瞬間に奪われたのか。
肉塊から救出された時に置いてきてしまったのか。
どちらにしろ、今の自分は随分と欠落してしまったらしい。
ただの人間が愚かにも魔術に手を伸ばした代償か。
ただの人間だったからこれだけで済んだのか。
間桐慎二という一般人に分かるわけもない。
優秀な魔術師は近くにいるが、呼び出して聞きたいわけでもない。
結果、誰に言うこともなく。誰に気づかれることもなく。退院することとなった。
眼鏡ケースをクラスの女子に見つかったのは失態だった。
席は後ろの端だから、余程の事がないと気付かれないと思っていたのだ。気づかれたところで、ネタにしてくるとも思っていなかった。
そういう意味では完全に読み間違えたので、自分自身の見通しの甘さが悪かったと反省している。
コンタクトレンズを買うことも考えたのだが、異物を一日中眼球に触れさせておくには抵抗があって買うのを止めたことを、早くも後悔してしまった。
騒がれなくてもいつかは気付かれていたことだとしても、少しばかり早すぎた。テスト期間は必要がなかったので油断していたのもある。
眼鏡の事があってから、何度か物言いたげな視線を感じたが、すべて無視していた。そのうち何か言われるかもしれないが、全部説明するつもりはなかった。
西日は当たっているが、温かくはない廊下を教室へと進む。
テストの結果は良好だったのだが、欠席数の事もあり、念のためと職員室で話をしていたために放課後も遅くなってしまった。
朱く染まった教室に戻ると、士郎の鞄がまだあった。本人はいないので、おそらくまた生徒会室にいるのだろう。
待つつもりはなかったのだが、士郎の机から見える景色に動きが止まった。
ここから桜の木が見えることは知っていた。まだ花を咲かすことないが、蕾くらいは付いているのかもしれない。しかし、幾ら目を凝らしても、枝に蕾がついているのかどうかは見えなかった。それどころか、桜の木よりも遠い所にある梅の木の枝は枝と認識できない。ぼやけた茶色の塊だ。
茶色いものが枝なのは分かっているのだが、ぼやけて輪郭をなしていないのだ。眉間に皺ができるほど目を細めたが、はっきりと見えることは終ぞなかった。
極端に下がった視力。
これが一つ目。
「―――■■■■■■てどうしたんだ?」
突然声をかけられて、驚きで一瞬体が硬直した。
いつの間に教室に戻ってきていたのか。全く気付かなかった。外を見て目を細めていたのを見られただろうか。視力が落ちたのはばれたが、どれほど低下したのはわかってないはずだ。安全策として眉間に皺を寄せたまま、ことさらゆっくりと振り返る。
足音が聞こえていれば、もっと早く気づいて準備できていたのにと思わなくもないが、聞こえないのだから仕方がない。
どうしたんだ、という言葉のみ聞こえたのは士郎が近づきながら声をかけてきたからで、教室の入り口であの声量だったら気づかないままだった。
以前よりも聞こえなくなった聴力。
これが、二つ目。
「衛宮こそなにしてんのさ?」
今までもこんなやり取りをした気がする。
同じような事を士郎も感じたのか、立ち止まった士郎の顔が僅かに傾けられる。ほんの少しだけ眉がより、足早に慎二に近寄ると、瞳を覗き込むように顔を近づけてきて、鋭く切り出した。
「慎二、なにを隠してるんだ?」
強い瞳に慎二は息を飲んだ。
何を見抜かれた?
どこまで気づいた?
視力が落ちたことは既知の事実なので、そのことについての言及だろうか。動揺していることを悟られないように、より不機嫌そうな表情を作り、覗きこんでくる瞳に込められた以上の力で睨み返した。
「隠すって何を?」
「何をって……目が悪くなったのだって聞いてない」
「なんで僕が、衛宮にわざわざ自分のことを言わなきゃならないわけ? もともと視力は少し落ち気味だったから眼鏡を買っただけだし、それをお前に報告する義務はないよな」
早口にまくしたてるが、士郎の瞳は逃げない。
「確かに、義務はないけど」
右手が頬に触れてきた。
「聞く権利はあるはずだろ」
押さえられ、静かな声色では感情は読めない。どうせなら怒ってくれれば楽なのにと、触れてきた手を横目で確認した。
士郎の手は頬に在るだけで、それ以上動くことはしない。動くのはいつも慎二からだ。
「権利を主張するなら、少しはそれらしいことをしてみろよ」
ゆるりと士郎の右手を撫で、顎を微かに上げる。慎二の意図を悟ったらしい士郎が、きゅっと唇を引き結んだ。
躊躇いが瞳に現れ、教室を見回すように動かされる。分かりきっていた士郎の行動に、呆れと少しの安堵を覚えつつ、左手を伸ばし首の後ろを掴むようにして近かった顔を更に引き寄せた。
「僕がいいって言ってんだよ、意気地なし」
誰かが教室に来るかもしれない。
ちらりと過ぎった不安要素を投げ捨てて、驚きに開かれた士郎の唇に咬みついた。
病院の薄い味の食事ではわからなかった。
桜の食事では確信が持てなかった。
だから、確かめてみたかった。
唇に思いきり咬みついて傷を付けながら、勢いを止めずに舌を滑り込ませる。怖気づいている士郎を嘲るように口咥を嬲り侵す。
素早く乱暴に、荒らすだけ荒らして、最後に絡めた舌を吸いながら引っ張り出すようにして離れた。二人の唾液で濡れた自分の唇を舐めとり、頬を上気させた士郎を見て嗤ってみせる。
色付く空気を振り払うように士郎を解放し机から降りると、数歩足を進めてから振り返る。
「帰るんだろ?」
キスの衝撃から立ち直ってない士郎に声をかけながら、扉へと向かい始める。僅かに遅れて追いかけてくる気配を確かめることはせずに、普段よりも足早に廊下を進んだ。
味覚も嗅覚もまだ無事だ。
近づけば士郎の匂いを感じられた。
交われば士郎の唾液の味が感じられた。
多少の劣化を感じられるが、視力や聴力ほどではない。
だけど、あぁ、いつまで――何時まで、覚えていられるのだろう。
指先で唇に触れてみる。
視界に入る指が確かに唇の付近にあるのだと理解して、ようやく自分で触れているのだと感じることができる程度。
触れられた事実は視覚情報でしか得られない。
記憶の柔らかさに頼るしかないのに、記憶は劣化する物なのだ。いつか消えて忘れてしまう。
これが、最後。
触角は鈍く、痛みにいたってはガラスの破片で掌を傷つけたのに、痛みを感じなかったほどだ。
生活に支障はないし、今のところ困ることもない。少しばかり周囲に気を張って生活していればいいだけだ。今日は失敗したが、士郎にも誰にも教えるつもりはない。
「慎二!」
呼ばれて、掴まれて、振り替えせられた。
真っ直ぐにこちらに向けられる瞳に射抜かれながら、慎二はなおも決意する。これ以上は決して悟られないように、細心の注意を払って過ごさなければ、と。
「なに? 続きでもしたいわけ?」
嫣然と微笑めば士郎は狼狽えて、慎二の腕を離してしまう。思った通りの反応に、気分がよくなりながら、ふわふわとして心もとない廊下を再び歩き続ける。
大丈夫。足取りにおかしなところはない。
一年、隠し通せばいいだけだ。一年経てば、士郎は遠く海を越えて行ってしまう。一万キロも離れれば、ことが露見することを恐れずに済むのだ。
ただ願わくば、消えることのない記憶が欲しい――、なんて言えるはずも、自分がそんな事を求めていることも認めたくない。認めない。
「慎二がその気でも病み上がりなんだから、無茶はさせないからな」
追いついてきて隣に並び、見当違いの事を言ってくる士郎を睨みつける。
「は? 僕がしたいって言ってるわけ?」
「違うのか? 誘ってきたからてっきり……」
「そんなわけないだろ。自惚れるな衛宮のクセに」
ほんの少しだけ士郎に近づき、横顔を窺い見る。困ったような顔をしてるくせに、どこかこのやり取りを楽しんでいる様にも見えた。何度も見ている顔だ、きっとこれから先も忘れすことはないだろう。
「――まぁ、でも、久しぶりに一緒に帰るぐらいはしてやるよ」
ぼんやりとした景色の中で、彼の横顔だけはしっかりと輪郭を保っていた。
きちゃ
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